はじめてやったとき、衝撃的だった。即効性がある。たしかに、と思った。
ポイントは、腰から上の背骨・胸椎・頚椎の骨、ひとつひとつを”積み重ねる”ように動くことのようです。
体軸という意識がないと、たとえば、競馬のパドック見ても、いいのか悪いのか分からない。たぶん、自分の体軸を基準に、それをモノサシとして”投影”して判断するからなのだろうと思う。カントのいわゆるカメラ図式は間違えてる可能性。外界→感覚器官→脳。ではなく、おそらく外界→感覚器官→脳→外界。
オーラが見えるのも、実際見えているわけではなく、感じたエネルギーを脳内で色に変換して、”投影”しているからだと個人的経験から思う。海外の、統合失調症から回復した人が、発症中のときの幻覚を赤裸々に書いてるのをどこかで、読んだんだけど、部屋の中で花火がスパークしたり、なかなかファンキーな映像を見るらしい。これも、”投影”から説明できる。
ユングの言う”曼荼羅”を部屋の壁に見たことがある。これも”投影”。小学校5年生のとき霊媒師に除霊してもらったとき、霊媒師の顔に霊の顔がオーバーラップして見えて、絶句したことがあるけれど、これも”投影”。
たぶん、誰一人として同一の見え方をすることはないんじゃないかと思う。共約不可能性。だから、言葉という存在に必然性がある。原理上、絶望的に分かり合えないからこそ、媒介としての言葉が存在する。
ゴッホの「星月夜」。デフォルメとかじゃなく、ゴッホには、そう見えてたのを、ありのままに描いた、という可能性。さきの統合失調症から戻ってきた人の描写に似た雰囲気を感じる。
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