ロト6を必然的に当てる道筋として3つ想定している(methodというページに、ぐだぐだ書いてます。→ https://loto6blog.blogspot.com/p/method.html)わけだけど、その3つ目、「魔術的手法」に関して、現在、synchronicityについて調べ、考察しています。
経験・体験のない事象について学ぶことは、できない。知ることはできても、できるようになるわけではない。たとえば、それは、水泳のロジックを学で極めても、実際に、そのように泳げるわけではない、のと、パラレル。
synchronicityとは、
ユングが提唱した概念で「意味のある偶然の一致」を指し、日本語では主に「共時性」と訳され、他にも「同時性」もしくは「同時発生」と訳される場合もある。例えば、虫の知らせのようなもので因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと。ユングはこれを「非因果的連関の原理」と呼んだ。Wikipediaより
あまい説明。「虫の知らせ」はシンクロニシティじゃなかろう、と思うが。一見、無関係な事象が、意味のある連関を見せる、というのがシンクロニシティの定義だと思うが。たとえば、ナンバー16の車が通り、直後、対向車線にナンバー16の車が通る、というのが、たとえば、シンクロニシティだと思う。
さて、「ピュタゴラス先生かく語りき」で、数についての考察を開始しているわけだが、ユングとパウリの共著『自然現象と心の構造』のなかに、ユングの数に対する”態度”がよく分かる箇所があったので、以下、記録と参考のために、引用します。
・・・偶然の本性に最も適した方法は、数による方法である。最古の昔から、人々は意味のある偶然の一致、つまり解釈されうるものを表現するのに数を用いてきた。
「解釈されうるものを」つーのが分かりにくい翻訳だ。シンクロニシティを数で表現した、でよかろう。
数には、独特な、あるいは神秘的とでもいってよさそうな何かがある。
「神秘的とでもいってよさそうな」? 神秘的といってもよい、でよかろう。
数から、ヌミノース的な香気が完全に奪われたというようなことはまだ一度もない。
(苦笑) これ、60点以下の訳出だよね。「いまだかつて数からヌミノースな香気が奪われたことはない」でよかね?
ヌミノース、、、
オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinose"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。
Wikipediaより
ちなみに、ユングは霊媒体質である。お母さんの家系からの遺伝ではないかと言われている。ゆえに、その宗教観は、やや、特殊に映る。
さて、つづき。
数学の教科書が教えているように、もし一群の対象から各々その属性あるいは特徴を一つずつ取っていっても、最後になおその
数 が残っており、このことは数が何か還元できないものであることを示しているようにみえる。(ここでは私は、この数学的な議論の論理に関わっているのではなく、その心理学に関わっているのである!) 自然数の系列は、意外にも同一の単位の単なるより合わせ以上のものであることが判明する。つまりそこには数学の全体と、この分野でまだ発見されていないすべてが含まれているのである。それゆえ数は、ある意味で、予測不可能な実体である。
「予測不可能な実体」というのは重要な指摘。「実体」、、、
古代ギリシアから使われている古典的な哲学用語。文脈によって様々な意味をもつが、基本的には「真に存在するもの」を意味する。
Wikipediaより
ユングがここで言わんとするのは、数とは、数学で定義されるだけの存在ではない、ということと、神性なる超越的存在である、ということ。つまり、それは、水とは、H₂Oである、と、水とは、記憶を持つ存在である、というのとパラレル。
(休憩中)
あののオールナイトニッポンに粗品がゲスト出演してて、聞きながら記事書いてたんだけど、あのが号泣しだして(笑) 粗品、生き急ぎ過ぎてるな、、、大丈夫、かな。メインのブログにup → https://jampackedtheatre.blogspot.com/2024/06/0-20240625.html
さて。
数と共時性といった一見同じものさしでは測れないように見えるものの間の内的な関係について、何か啓発的なことを言ってやろうという気は毛頭ないが、この2つが常にお互い結びつけられているだけでなく、それらに共通の特徴としてヌミノースと神秘性を持っているということを私は指摘せざるをえない。
数と共時性には、ヌミノースと神秘性がある。
数はいつも何らかのヌミノース的な対象を記述するのに用いられてきたのであり、
例で示して欲しいところだが、例なし。
また一から九までの数はすべて一〇、一二、一三、一四、二八、三二および四〇が特別の意味を持っているのとちょうど同じように、「神聖」 視されているのである。
一から九を重要視するのは、カバラ数秘術だったかな。 「10 12 13 14 28 32 40」が特別な意味を帯びてるっていうのを、ちょろっと調べたけど、わからん。また今度、しっかり調べよう。
ある一つの対象についての最も基本的な性質は、それが一であるか多であるかということである。数は、他の何にもまして、諸現象の混沌に秩序をもたらす(略)
ゼロの発見がすごいという意見があるけれど、違う。一の発見のがすごいんだ。その個体性の認識、単独性の意識から、人の世界は始まる。一があるからこそ、ゼロが発見できた。あるということがあるから、ないが存在できる。逆は不能。
それは秩序を創ったり、あるいはすでに存在してはいるがまだ知られていない整然とした配置または「規則性」を把握するために予定されている道具である。
数には、秩序を創造する”力”がある。また、未解決問題を解くツールでもある。
(昼食中。LAWSONのPBきつねうどん)
「あたし、インスタント食品なんて食べません」という”意識高い系”の意見も分からんでもないけど、うまい、と思って食えば、あるいは、うまい、と思うことは、体へのダメージを減らす効果があるという海外の論文があったと記憶する。それに、お湯多めにいれて、ヒマラヤンピンクソルトをふりかけたから、プラマイゼロじゃろ(笑)
つづき。
一から四までの数が最も頻繁に現われ、また最も広い影響をおよぼしている(中略)人間の心の中でも秩序の最も原始的な要素(中略)秩序の原始的なパターンはたいてい三つ組か四つ組(中略)数が元型的な基盤を持っているということは、(中略)ある数学者達の推測である。それゆえ、(中略)数を、意識化された
秩序の元型 と心理学的に定義したとしても、それほど無茶な結論ではないのである。
なるほどねぇ、、、
(略)無意識によって自発的に生み出される全体性の心像、すなわちマンダラ模様のいろいろな自己(the self)の象徴もまた、数学的構造を持っている。それらは一般的にいって四位一体(quaternity)のもの(あるいはそれの倍数化したもの)である。
ありゃ、これは、6だ、、、ユングが描いたやつじゃないんかも。
↓ユング『赤の書』より。
これらの構造は秩序を表現しているだけでなく、それを創りもしている。そのゆえにこそ、それらは普通、心的な方向喪失の時期に、混沌状態を補償するために、あるいはヌミノース体験の定式化として現れるのである。
心が壊れかけのRadioになったとき、無意識層の修理人が寿命という保証期間が過ぎてなければ直してくれる。
不思議な体験をしたときに数が登場する? また、不思議な体験を表現する場合、数を使うと伝わりやすくなる?
ユングは、UFO のことをマンダラであると言ったが、これは、僕の自己体験からも賛成できる。これについては、違う場所で記事にしよう。
(略)意識的な心は、これらの秩序パターンを模倣することはできるが、だからといってこのような模倣は、根源的なものが意識的な発明であることを説明しない。
? 根源的なものは、意識が生み出したものではない、と言おうとしてるんだよね?
(略)無意識が、秩序づける因子として数を用いているということである。
無意識は、数を使って、秩序をもたらす。
一般的に信じられていることといえば、数は人間が
発明 あるいは考え出したものであり、それゆえ量の概念にすぎず、あらかじめ人間の知性によって量の概念に入れられなかったものは何も含んでいないということである。
しかし!
(略)それと同じく可能なことは、数が
見出され (found)たり、発見されるということである。
発明・創造 - 発見
(略)数は概念だけでなく何かそれ以上のもの、つまりどういうわけか単なる量以上の何かを含んでいる自律的な実体なのである。概念と違って、数は心的過程(psychic assumption)ではなく、数それ自体であるという性質、すなわち、知的な概念によっては言い表わせないような「かくある他ない(so-ness)」という本質性に基づいている。こういった条件のもとでは、数には、まだ発見されずにいる諸性質が簡単に付与されるであろう。私は、数が発明されたものであると同時に、発見されたものであり、結果的には元型に類比できるような相対的な自律性をもっているという見解に傾いていることを告白しなければならない。
ここらへんから、山場になる。
数は、それで元型と共通して、意識に先行して存在する。
訳下手。数は元型と同じく、意識より先に存在している。
それゆえ、意識に条件づけられるよりむしろ意識を条件づけることがあるという性質を持っているようである。
「ようである。」というのがユングっぽいよね。仮説としての提示。
元型もまたアプリオリな理想形(ideal form)として、発明されるものであると同時に発見されるものである。
(ちょい休憩)
もしこれ(自然数は元型的な性格を持っているように思われる)が事実そうなら、ある種の数や数の組み合わせが、ある種の元型に関係をもち影響を与えるだけでなく、その逆もまた真になろう。第一の場合は、数の魔法と同じであるが、第二の場合は、数が占星術にみられる元型の組み合わせとともに、ある特殊なあり方で行動する傾向を示すかどうかと問うことと同じである。
?
数や数の組み合わせ → 元型 = 数を使用する魔法(たとえば、魔法陣)
元型 → 数や数の組み合わせ = 占星術に”翻訳"された元型と、数が連動を示すかどうかと問う行為
で、第一章が終わり、第二章「占星術の実験」へとつづく。
元型ってのがあまり馴染みがないと、数は元型に似てるって言われても、逆に、わかりづらくなっちまうね。
元型(げんけい、ドイツ語: ArchetypまたはArchetypus、英語: archetype、アーキタイプ)は、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学(ユング心理学)における概念で、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源となる存在とされている。集合的無意識のなかで仮定される、無意識における力動の作用点であり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用する。元型としては、通常、その「作用像(イメージ等)」が説明のため使用される。
Wikipediaより
ユングの本、あとで、掘り出して来るので、とりあえず、Wikipediaから、いろいろな元型について、ひっぱってきます。
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代表的な元型
- 自我(エゴ)- 意識の中心。個人の意識的行動や認識の主体。意識のなかに存在する唯一の元型。
- 影(シャドー)- 意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と、否定的な影がある。否定的なシャドーは、自我が受け入れたくないような作用をする。
- アニムス - 女性の心のなかにある理性的要素の元型で、選択的特徴を持つ(判断機能がある、ということか?)。しばしば、男性像で認識される。
- アニマ - 男性の心のなかにある生命的要素の元型。受容的特徴を持ち、しばしば、女性像で認識される。ラテン語では、同じ語幹から派生した名詞の男性形と女性形、つまり、animus と anima が、前者は「理性としての魂」、後者は「生命としての魂」の意味があり、この区別を巧みに利用して、ユングはこの二つの元型の名称を決めた。
- 太母(グレート・マザー) - 自己元型の主要な半面で、すべてを受容し包容する大地の母としての生命的原理を表す。
- 老賢者 - 老賢者は太母と対比的で、同様に自己元型の主要な半面で、理性的な智慧の原理を表す。
- 自己(ゼルプスト)- 心全体の中心。心の発達、変容作用の根源的な原点である元型。円の定義における中心点みたいなもの?
その他の元型
- ペルソナ
- 子供
- 永遠の少年と永遠の少女
- 英雄
- トリックスター
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