解釈には、3つの段階がある。まず、事実的レベル。つぎに、現実的レベル。最後に、象徴的レベル。
笠井潔の一連の論考は、とても優れたワークだと思う。特に、錬金術とは、媒介を通して、象徴界に至ろうとする営為である、という定義は、明快である。また、「現実的世界喪失の観念的回復」からの人間行為に対する分析は、今も、有効であろう。
解釈の3段階実例。
解釈は、文に対するものばかりでなく、映像や音楽に対しても、同様に、3段階あると考えられるが、説明の簡単のため、以下、文における解釈の3段階について記述する。
文(もしくは言)とは、誰かによって書かれた(発せられた)ものである。
言表「1である」に対する解釈の3段階
- 事実的レベル解釈
- 現実的レベル解釈
- 象徴的レベル解釈
例。みかんが1個ある、という事実の言表。
例。みかんが、2個や3個ではなく、1個しかない、という現表。
例。「人類みな兄弟」と同等の内実、もしくは、相似内実を持つと考えられる。
上記において、象徴的レベル解釈は、現実的レベルを超過しているが故に、現実的レベルおよび、さらに下位の事実的レベル解釈の合成などの操作によっては、達成されない。
上記の考察から結論されるのは(途中を端折って、一気に結論すると)、われわれの単独性は、事実的レベルや現実的レベルにあるのではなく、象徴的レベルにおいてある、ということになる。ここでいう単独性とは、交換不可能性である(“わたし”は、“あなた”にはなれず、その逆もまた真なり)。交換不可能性とは、コミュニケーション不能でもある。
追記
ニヒリズムとは、象徴的レベル欠如による、現実的レベルの事実的レベルへの下降状態のことを言う。決して、意味の破壊行為を意味するわけではなく、むしろ、積極的な意味渇望状態のことである。
追記2
生まれ変わり・転生は、象徴的レベルからの下降現象として解釈できる可能性がある。個人的には、生まれ変わりも転生も否定的ではあるが。夏目漱石が言うように、この世で片付かないことは、あの世でも片付かないわけであり。生まれ変わり・転生は、事後的意識(すべてをエンドにおいて考察するという態度。エンドにおいて過去は、確定した事実の束であり、単線構造であるが故に、必然性を有するように、見える)において、現実否認を生み出すことになる。キルケゴールが言うように、絶望した人間(すべてをエンドにおいて見る態度)に対しては、希望を、可能性を与えるがよい。三文文士である芥川龍之介は、確か「将来に対する漠然とした不安」と書き残し自殺したわけだが、この言表は転倒している。実際の内実は、このまま行き続けた将来において、自分が生きてきた過去を振り返るならば、そこには、大した内容がない、ということになる。パッションの欠如した彼の精巧な文は、同じく自殺した三島由紀夫と相似形である点も、示唆を与えるであろう。彼らは、観念的に倒錯していたのだ。そして、現実を救うべき象徴的表現へと至ることができなかったのだ。小説が真に小説であるならば、現実を救えるはずのものであり、実際彼らが自殺したということは、彼らの小説が真の小説ではないことを意味しているだろう。いずれにしても、自殺と言う行為は、観念の肉体に対する暴力であり、つまりは、倒錯しているのだ。
追記3
自殺に関して。シェルドレイクの形態形成場の仮説が正しいならば、自殺するものの場というものがありうる。ただ、実際は、生きるものの場の方が強大で影響力が強いはずであるが。ただ、われわれのモードが、自殺するもののモードに共振すれば、自殺するという場へ引きずりこまれるだろう。いずれにしても、われわれは、自殺するものの場に引きずられることがないようにしないければならない。生きる方向へ、希望と可能性の方向へ行かねばならない。未来は、未確定であり、カオスの科学から言えるように、微細な差が、将来においては、無限に拡大されるわけでもあり、個々人の微細な差であっても、全体が大きくつき動かされる可能性があるわけであり。いついかなる時でも、絶望する必要なぞない。
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