ブログっちゅうのは、“進行形”だ。だから、完成形を書かねばならないと力む必要も、プレッシャーを感じる必要もない。ちょっとずつでよいから、進歩していってるという記録が残っていけばそれでいい。
そういう“進歩”の積み重ねが、ある瞬間に、相転移して、劇的な進化を遂げるはず。だから、何も恐れず、ウェブ上に公開すればよい。
われわれ自身だって、過去のすべての人々の試行錯誤の積み重ねという労力と犠牲の上に現在の生を受けているのだから。われわれの試行錯誤も、いずれ報われることがある。無名の戦士として。
シェルドレイクの言う形態形成場が実際にあるかどうかは分からないが(じゃむは、ある、と信じてる)、それがあるとするならば、その場を通して、われわれは否が応でも連結されており、誰かの達成や、誰かの失敗に影響を受けて日々生きている。空気を吸うくらいナチュラルに。
それと同時に、われわれの生は、資本主義の時間の中に投げ込まれており、われわれは相互に手段として高度に組織化されている。あまりにその関係性が複雑すぎて、実感がわかないが。例えば、他国で生産されたものを食い、その他国に環境被害を押しつける。われわれはそう意識はしないが、現にそうである。
ソクラテス=柄谷行人が言うように、“無知は罪である”。知りうる立場と知りうる能力があるならば、「知りませんでした」や「そんなことは聞いてませんでした」は通用しない。この意味から見れば、ジャーナリズムの唯一の存在意義は、“それを知らなければ罪である事実の報道”であることは一目瞭然である。いわゆるジャーナリズムが言う、“われわれには報道する義務がある”には、自問か前提条件の提示が欠けている。
われわれは、主の立場に立てる瞬間を放棄している。われわれは基本的に、労働者と消費者という立場を分有するが、消費者の立場は、主の立場だ。つまり、極論すれば、不買運動を起こせば、企業はわれわれの言うことを受け入れざるを得なくなる。コカコーラ、ペットボトルのフィルムを簡単に剥がせるようにするまでは、じゃむは、買わないぞ!
ウェブというのは、場を強化するものだ。従来あやふやに連結されていた場が、初めて、ワールドワイドにフィジカルに連結される機会を持つ。カントが暗い見通しの中で(=人類は残虐行為を通してしか理性を発揮できないという)構想した世界共和国がウェブ上では実現できるだろう。
この宇宙の根本原理は、生と死であって、できうるならば、われわれは生の方向を目指すべきである。ブログsphereや、ウェブが、生を強化する方向に成長してくれることを祈るばかり。
0 件のコメント:
コメントを投稿