ロト6の1等当選確率は、「ロトシックス申込カード」の裏面にも記載されている通り、1/6,096,454という落ち込ませるような数字。610万分の1。大手の老舗ロト6サイトも、同じように当選確率について、当然の知識であるかの如く掲載されていたりする。
でも、なんか釈然としないんだよね。買う時には、そんな数字のことは、頭に全然ないんだから。
確率っていうものに対する不満は、事前に予言ができないじゃんという点に尽きる。この1口が当たってるのか当たっていないのか、確率からじゃ分かんないもん。
この本はかなり前に買って、通俗的すぎるのかなぁと思ってしばらく放置してたんだけど、いろいろと巡り巡って、戻って読み返してみて、やっぱりなかなかよいことを書いてるんだなぁと思った。あと、個人的にすごく期待しているのが、松原望という人のホームページに、「「ロト6」など宝くじの当選確率計算の誤りについて(制作中) New !」という項目があって、この2年間待ってるんだけど、いっこうにアップされる気配なし(笑) →「確率論の入門基礎」というページ真ん中あたり。
『使える確率的思考』の中で、確率をとらえる立場として代表的なものには、おおざっぱに言って4種類あるとして、以下のように列挙してあったりする。
- 対称性から確率をとらえる流儀
- データから確率をとらえる流儀
- 主観的・心理的に確率をとらえる流儀
- 論理学で確率をとらえる流儀
対称性から確率をとらえる流儀というのは、要するに学校で習う数学的確率のことだな。さいころで1の目が出る確率は6分の1である、といった感じ。ロト6の1等当選確率が609万分の1というのもここに分類される。
データから確率をとらえる流儀というのは、データを分析して、できごとの起こりやすさを表現する流儀。ロト6で言えば、例えば、30はこれまで360回の抽選で60回出現しており6回に1回の頻度で出現している、と表現するものだな。ただ、この流儀からではこの1回を予測することは困難。
主観的・心理的に確率をとらえる流儀というのは、人間の主観や心理に基づいて確率を表現するもの。本から説明を引用してくると、
たとえば、ある人が「十中八九だいじょうぶです」といった場合、この人は「自分の経験では、10回のうち8割9割のデータで大丈夫でした」といっているわけではない。あたりまえだ。そんな奴とはいっしょに仕事をしたくない。この言葉が意味するのは、「絶対とは言えないが、よほどのことがない限り大丈夫です」ということである。ここでの「十中八九」という数値が、主観的確率なのである。(51㌻)
まあ、言うまでもなく、これの弱点は、いい加減だということだな(笑) 客観的根拠脆弱だから。だけど、われわれにとってはリアルではある。ロト6予想における、じゃむの立場は、ほぼ、ここだね(もちろん、じゃむの予想がいい加減である、と言ってるけではない)。
論理学で確率をとらえる流儀というのは、一言で言えば、推論を重ねて理由と根拠を示し、それによって確率を表現するといった流儀。「カープが優勝する確率は低い」と表現されるような流儀。プロ野球の優勝チームを予想するのに、データや数学的確率があまり役には立たないだろうことはなんとなく分かる。そういう場合には、「エースの黒田がメジャーリーグに行ってしまったから勝ち星計算できる投手がいない」とか、「4番打者の新井がフリーエージェントで阪神に行ってしまったから、得点力が落ちている」といった一連の理屈(=推論)を積み重ねていって、カープの優勝確率を計算することになる。まあ、主観的・心理的確率の流儀と紙一重ではある。
できれば、論理学で確率をとらえる流儀、ここにロト6予想のスタンスを置きたいものだね。
以前、かなり前だけど、某老舗の大手ロト6サイトの管理人に、確率に関して、質問のメールを出したことがある。今となっては、なんか感じの悪い奴だな、というイメージしか残ってない。じゃむが言いたかったのは、以下の一文に集約される。
正しいことを(真であることを)言うことが善いこととは限らない
確かに、ロト6の1等当選確率は609万分の1という言(または文)は、正しいし、数学的にも真だろう。だけれど、善-悪という基準から見て、どうか? ということなんだよね。言や文は、生を励ますものでなければならない。人を落ち込ませるようなことを言うのが善いわけがない(もちろん、case-by-case)。
だから、善-悪という判断軸を持たない馬鹿なロト6サイトの管理人たちは、倫理上問題があると思うエロ・消費者金融・オンラインカジノの広告を報酬額が高いという理由から載っけてるんだろう。馬鹿は馬鹿だ。ロト6の1等当選確率は609万分の1であるという言・文と、そういう広告を載っける行為は、同根から発している。
馬鹿な管理人にもう一言だけ。カントの言葉を。
他者を手段としてだけでなく、同時に目的としても扱え
他者を手段としてのみ組織化する資本主義がすみずみにまで浸透した現在では、他者を手段とする行動が当たり前だと思ったら大間違い。ネット上には自由の風が吹いているんだから。
自由とは、他者に殺される自由をも含む。
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