雑談用のブログは他にあるのだけれど、アクセス数もここの100分の1くらいしかなく(笑) 緊張感がないので、こちらで書いてしまうという。
以前書いたある種どうでもよいような記事に対して、じゃむが定職についていないように見える、というコメントをいただいたのだが、わかんないよ、専業主夫をやってるのかもしんないし、投資でしこたま儲けてすでにリタイアしているのかもしんないし、霞を食って生きてる仙人なのかもしんないし(笑)
まあ、じゃむのプライベートなんて、どうでもよいでしょ? ここはロト6を予想して当てるために、というコンセプトのブログであって、じゃむのプライベートについてのブログではないんだから。
まあ、文は文だけで自立できるかどうか、というのが重要なことだと思う。私小説が発生した日本では、文にプライベートを読み込むというのがナチュラルなんだろうが、じゃむはそういうの興味ないな。文は文だけで自立せにゃいかん。じゃないと、死後、文も死んじゃうでしょ? “永遠”を孕まないような文に興味はねぇ。
定職につくのが正しいという社会通念(ここで言う「社会」は、「一般」という意)は、管理側の管理しやすさに貢献する。だから、マスコミその他を通じて、管理側は、そういう社会通念を再生産・強化する。
一般-特殊という思考回路は、空気のようにわれわれを満たしているわけだが、そういう思考では、ロト6を、たまたま当てられても、予想して当てる・当て続けるといいうのは、不可能だと思うがね。
一般通念が問題なのは、それによって思考し、行動することによって、その生の所有権が、自らのものにならないという点。1回限りの人生だぜよ、誰のものか分からないような人生なんて、嫌じゃん。
異端や、そこまでいかなくても、“仲間はずれ”になることは、社会動物である人間としては、不安であることだけれど、それと引き換えに、生を自らの手に取り戻すことができると思うのだけれどね。
それに、ネットがある。フィジカルな条件にしばられずに、遠い仲間を見つけることだって、今はできる。
政治家や、マスコミは、生理的にネットを毛嫌いしつつも、暗にそれを利用したりしている。それなしには、もう世界が成立しないことは、重々分かってるのだろう。管理-自由という対抗軸で見るべきではないかもしれないが。
ぐだぐだになってきたな(笑)
ブログに関して。できうるならば、書くことで、この世界の“富”を、ちょっとずつでもよいから、積み重ねていってる、というようなことを書いて欲しい。これは自戒の意味も込めて言っておきたい。
最後に、カントの言葉を引用。「他者を手段としてのみならず、同時に、目的としても扱え」。定職につくということは、基本的には、要するに、他者の手段になるということ。起業する場合でも、同様。起業することは、主の立場に立つように見えて、実は、資本主義の奴隷になることに過ぎない。「目的としても扱え」の「目的」とは、要するに、他者の自由を認めろということで、その人がやりたいことをやらしてあげるとか、欲しいものをあげるとか、ということ。ネットが、ますます、そういう世界になるとよいんだけどな。
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