ロト6予想-イメージシンクロの可能性について

2007年4月28日土曜日

ロト6固定記事 ロト6予想イメージシンクロ ロト6予想理論探求

ロト6予想方法としてロト6当選番号予想ブログのtoraさんが提唱・実践しているのがイメージシンクロという方法である。

イメージシンクロとは、どうやら、もともとはサッカー用語のようである(Googleとかで検索すると、最近はtoraさんのブログ関係のものがより多く表示されるようになってきたが)。ネット上のサッカー関係のページから、その用例を抜き出してくると、

もちろん、彼のフリーランニングを生かすのはラストパス。ボールホルダーとの「あうんの呼吸」が勝負を分けるというわけだが、そのポイントにこそ、彼らの真骨頂を感じる。ブレーメンの選手たちは、同じ量の空気を、同じリズムで吸い込み、吐き出しているとさえ感じるのだ。そんな高質なイメージシンクロプレーを見るたびに、指揮官トーマス・シャーフの確かなウデを感じるのである。(Yahoo!スポーツナビより)
 それにしてもジュビロの攻撃は魅力的です。例えば、後半13分の前田の決定的シーン。そこでは、ラストパスが、動いている味方が狙うスペースへ正確に送り込まれました。まさに高質なイメージシンクロを基盤にした最終勝負。魅力的です。そのキッカケになったクリエイティブな展開をリードしたのは、言わずと知れた名波。中盤でボールを持ち、相手守備ブロックのイメージを逆手に取ったボールコントロールから、素早く、左サイドを駆け上がるジヴコヴィッチへのパスを決めます(もちろんスペースパス!)。そして持ち込んだジヴコヴィッチが、相手マークを完璧に外してしまうようなシャープな動きからニアポストサイドへ全力ダッシュしてきた前田への(彼がイメージしたスポットへの!)ラストクロスを決めたという絶対的チャンスでした。でも、前田の右足アウトサイドでのダイレクトシュートは、わずにポスト左へ外れてしまって・・。(湯浅健二の「J」ワンポイントより)
 右サイドでパスレシーブしたロナウド、ルックアップから、センターの選手とアイコンタクト。DFとGKの中間に、速いクロス。アイコンタクト後、フリーランニングで走りこんだ選手が合わせて得点。VTRで確認してもらうと、よくわかるのですが、ロナウドとルーニーが、イメージングをシンクロさせた瞬間が画面から伝わってきます。こういうのは、普段のTV枠では映らないので、非常に嬉しいです。ちなみに、C.L.のギグスも同様の瞬間が見られました。つまり、この二つの得点は、まったく同じ構造を持ったゴールだったのです。ロナウドの成長には、驚きの連続です。(harutalk ~ Football~より)
上記の引用を読んだ感じでは、そういう印象を受けないかもしれないが、これはほとんど“神秘主義”である。

サッカーという場面で使われるイメージシンクロとは、同一時間における距離を隔てた二つの個体間での非言語的コミュニケーション(=意思伝達+受容)というほどの謂いだろう。

ロト6予想におけるイメージシンクロとは、サッカーでのそれとは違い、時間軸上での未来との非言語的コミュニケーションである。そして「二つの個体間」ではなく同一の個体間でのものである。つまり現在の自分と未来の自分との間のイメージシンクロである。

toraさんのブログにおけるイメージシンクロの記述を見る限り、どうも、toraさんは、数字自体のイメージシンクロ(未来に訪れるであろう数字を現在に引き寄せる、という感じか?)を志向してるような気がする。これまで一連のtoraさんのロト6予想におけるイメージシンクロの困難さは、そこに一因あるのではないかと思われる。

ターゲットの不在もしくは、不明確さがイメージシンクロの困難さの原因の一つであると信じるが、もう一つは、イメージ自体の“あいまいさ”にあると思われる。これについてはtoraさんも、再三再四言及している。

おそらく、イメージとは、あいまいなものではなく、たぶん、“多義的”なものであるはずだ。形象思考をしなくなりつつある我々にとっては、それを想像することは、非常な困難がつきまとうと思うが、ありふれた例を挙げるとするならば、われわれが日常的に触れている漢字がある。

明治に近代国家が成立するのと“平行して”言文一致が行われ成立した。言文一致とは、柄谷行人が『日本近代文学の起源』および、その約20年後に発表された『“戦前”の思考』の一連の論考に詳述しているが、“漢字の廃止”がその本質であった。もちろん実際は、漢字は廃止されなった(確か、これまで何回かの簡略化という“暴政”が行われてはいるが)。だが、われわれの漢字に対する受容の仕方が変容したのだ。

漢字とは、言うまでもなく、形象文字である。ひらがなやアルファベットは表音文字である。形象は、それ自体で意味を持つ。漢字は、大昔に中国という帝国から、漢字を受容した際に、大和言葉と交わり、音と訓を付与された。しかし、音と訓という音声に奉仕する手段としてだけでなく、漢字はそれ自体として意味を帯び続ける。そして、実際の漢字の受容の仕方を想像してみれば分かると思うが、漢字は、テキストという“空間的なもの”として受容されたし、また、同一の漢字を介して、様々なテキストが“空間的に”に存在することになる。それが漢字を例にとったイメージだ。さまざまな関係の網の目、さまざまな“中心”が存在する空間的配置。国民の同質性(国家力を増強させるための生産力増大、軍事力増大のために必要であるから)と唯一の中心による組織化を前提とする近代国家にとって、漢字が邪魔なものとなるのは当然である。

話しはかなり逸れるが、ブロガーは、闘わねばならない。文とは、何かに対抗して書かれるものだ。この世界に新たにつけ加えるものだ。常識に反してでも、文は書かれなければ、存在価値はない。

われわれは、すでに、漢字にイメージを感じることが乏しくなっているはずだ。例えば、一般的には、漢詩なぞ読まれていないんだから。すでに漢字は、音声を表記する手段としての使用が優位だ。つまり漢字におけるイメージは、死につつある。空間として存在していた漢字は、死に絶えている。

イメージとは、多義的なものであるが、それは、イメージにとって時間が不得手だからでもある。上記の漢字の例でも明らかだが、もっとありふれた、われわれが見る夢について考えてみればよい。夢は、いつというものを指定することができないはずだ。たとえ予知夢や正夢であっても、“事後”になってから、予知夢や正夢であったと判明するものではないだろうか?

だが、ほんとうに、イメージにとって、時間は不得手なのか? それは、たんに、そう判断するわれわれが暗黙のうちに前提としている現実認識の仕方のせいではないのか? つまり、時間とは、過去から現在、そして未来へと、リニア(=線的)に一直線に伸びるものとしてイメージしているせいではないだろうか?

イメージは、空間として存在する。つまり、イメージには、過去も未来も、いわばごたまぜに存在しているのではないだろうか。

(つづく)

執筆予定。

  • 乱数発生器と予知実験
  • RV(リモートビューイング=遠隔透視)
  • “知ってる”と“できる”について(カルト批判)

ロト6のロゴをデザインされた BRAVIS INTERNATIONAL様

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ひとこと

2024/08/02 9:30 こまかな超常現象が不定期に発生しているも、そんなのかんけいねー 月相とロト6の出目、天の川銀河とロト6の出目、これを観察→仮説→検証→修正→再仮説、、、というループを延々とまわしているところ 摘出順じたいも、はよ考察したいが、、、

ひとこと、ふたこと、みこと

十数年ぶりにブログ再開して1ヶ月ちょい。全然、ダメダメだわ。いろんなスキルが落ちてる、し、最新のネット上のんの知識が、欠落しとる!  まあ、いい。時が解決する。あと、ハイレゾだなぁ、、、はよ高額当選して、ハイレゾ・スピーカーを配りまくるおじさんにならんといけんし、ランビルの森に実際行って、自分でハイレゾ録音して、無料で配る。

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